ゲームで遊ぶことがなぜ「けしからんもの」として認識されているのか。
金にならないからなんじゃないか。
ゲームを遊んでいるだけだと、たしかに金にはならない。
いくら時間をつぎ込んでも、腕を上げても、ただゲームして遊んでいるだけだと一銭にもならない。
それが平成後期になって、ゲームを遊んでいるだけで金になるかもしれない展開になってきた。
- ゲームをスポーツ競技として懸賞金を得る
- ゲームを遊んでいる姿を人に見て楽しんでもらう
- ゲームを遊んで改善案を製作会社に出す
これらはすでに「仕事」として分類されている。
海外ではプロゲーマーやプロストリーマーで溢れ、市場規模もどんどん拡大している。
それは日本も例外じゃない。
年々ゲームが「ひとりで楽しめるもの」から「みんなで楽しめるもの」へと変わっていっているんだ。
何が言いたいのかというと
もうゲームは
「ずっと熱中しててけしからんな!」
と思われるようなモノじゃなくなっているということですよ。
10年間不登校で、3万時間もゲームをし続けたのち、高校で起業して1億円稼いだ小幡和輝という人がいます。
この人が先日出版した
『ゲームは人生の役に立つ。』
という本を読んでいろいろ考えたので、レビューしたりぼくの過去のゲームの経験を話したりしますね。
ぼくとゲームとの思い出

というわけで、最近忙しくなってゲームをやっている場合ではなくなったかずのこです。
ゲームするよりもバーで飲んでる方が楽しいかもしれないとか、引きこもり失格ですよね!ごめんなさい!
でもそんなぼくだって、幼少期から最近までひたすらゲームをして過ごしてきたんです。
めちゃくちゃゲームが大好きで、学校から家に帰ったらまずゲーム!!!といわんばかりに飛びついていました。
そんなぼくの、ゲームとともに過ごした内容を一部紹介します。
ぼくとゲームの思い出 ~ヒザ神と呼ばれるようになったワケ~
ぼくが初めてゲームを知ったのは5歳くらいだったと思います。
家にファミリーコンピューターいわゆる「ピコピコ」が置いてあり、母がたまーに遊んでいるのを眺めていました。
それから自分でも触るようにはなったのですが、そのときはあまりハマりませんでした。
ゲームというものに興味を持ち始めたのは、少1のとき誕生日プレゼントで我が家にニンテンドウ64がやってきたときです。
一度やりはじめてから火がつき、家にひとりでいるときは必ずゲームをしていました。
小学生では、ニンテンドウ64『マリオパーティ』でスティックをグリグリしすぎて手のひらの皮が剥け・・・
中学では不登校になり、家にいる間ほぼずっとゲーム。『テイルズオブ』シリーズを制覇しようとし・・・
高校でも不登校になったぼくは『メタルギアソリッド3』で映画のような演出に感動の涙を流していました。
当然1人で遊ぶだけじゃなく、友達を家に呼んでずっと『スマブラ』で笑いあいました。
大学生になって、うちにギュウギュウになるほどの人数が遊びに来て『スマブラDX』をしたのもついこの前のように思います。
そのときのぼくのあだ名は『ヒザ神』で、キャプテン・ファルコンというキャラクターの“当てるのが難しい膝蹴り”を1秒間に同じ相手に3回クリティカルヒットさせるというエゲツない技を披露したのち呼ばれることになりました。
そのあだ名は、おとといの結婚式で5年ぶりにサークル友達に会ったときにも「今日はヒザ神出ないんですか」と言われましたよ。出すかい!
結婚式場で飛び膝蹴りなんてやってたら追い出されるだろ!!
しょうがないので膝蹴りするマネだけやりました。

画像は『大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL』から
ぼくにとってのゲームとはなんだったのか
ぼくはこれまでの人生で、とくにつらいことがあった時期は狂ったようにゲームをしていました。
- 不登校になって周りの目が気になったとき
- 会社に行けなくなり誰にも相談できなくなったとき
- 引きこもって無力感におそわれたとき
ゲームに逃げて、現実を直視したくなかったんです。
でも、そんなときにやるゲームってあまり「楽しい」という気持ちは浮かんでこないんです。
ただただ没頭して、余計なことを考えないようにしていただけ。
ゲームに集中していない間は、劣等感や罪悪感でいっぱいになって押しつぶされそうになった。

没頭することで考えないようにしていた。
たまに不登校の子を持つ親御さんから「子どもが学校に行けずゲームばかりやっていて心配だ」という相談を受けます。
かつてのぼくと同じように、ゲームに逃げることで自分の身を守ろうとしている子はたくさんいるみたいですよ。
ゲームに没頭して現実から目を背ける。
それは一時しのぎにしかならないし、解決にはならないかもしれない。
けど、没頭するというのは一種の意思表示なのではないでしょうか。
なかには本気で「ゲームが楽しいから学校に行く間も惜しんでやってる」という子もいると思うけど
そういう子は逆にゲームを遊ぶことで金になる道へ行った方が早いんじゃないかと思いますね。
ぼくがゲームをやっててよかったと思った瞬間
ぼくはゲームのない人生なんて考えられないし、これまでも何百というタイトルを遊んできました。
そのうえで「ゲームをやっててよかった」と思うことって、実はたったひとつしかないんです。
それは、人とのコミュニケーションで使えるということですね。
- 父親とスト2で対戦して、その流れにのって学校でのできごとを話す
- 新しい友達にはまずなんのゲームが好きかを聞いて仲良くなる
- ゲームという共通の話題で盛り上がれる
ゲームって優秀なんですよ。
話し下手なうえスポーツにもテレビにも大して興味がなかったので、ゲームという大きな共通点を持っていたのは助かりました。
ゲームは日本人ならほとんどの人に経験がある。
ぼくにとってのゲームとは、どんな他人とも共有できる体験そのものでした。
体験を人と共有すれば、そこに友情が芽生えるのは当然ですよね?
まぁおかげで、ゲームの話になると早口になるキモキャラのまま学生生活を終えたんですけどね。
ゲームはコミュニケーションツール!
さてここまではぼく個人の話だったけど、本についても触れておきます。
『ゲームは人生の役に立つ。』
ですよ?覚えてる?
この本は著者の小幡和輝さんが、様々な有識者?とゲームについて語って行くという流れで作られている。
なかには有名な脳科学者の茂木健一郎氏もいる。
まぁ茂木さんは著者の小幡さんと仲が良いってのもあるけどね・・・
読んでいると、ゲームとともに生きゲームとともに死ぬぼくには同意できる点が多数。
「あるあるあるある」と首を縦に振り、筋を痛めてしまったほどだ。
で、ある程度読み進めて思ってしまった。
この本は「ゲームなんてけしからん!」と思ってる人は読まんだろうなと。
ゲーム嫌いのお父さんお母さんの説得材料には使えそうにないですね。
だってこの本に書いてあることは、ゲームを遊んできた人にしかわからないものだから。
ゲームをやってきて無駄じゃなかったんだと気付く本
じゃあこの本はなんなのかというと、いま言ったとおり「自分はこれまでゲームをたくさんやってきたけど、決して無駄じゃなかったんだな」と気付くための本だと思うのです。
サッカーや野球で協調性を学べるように、ゲームでも様々なことを学んできたことに気付かされるのです。
ひとことで「ゲーム」と言っても、いろ〜〜〜〜〜んなゲームがありますよね。
RPGゲームのストーリーに感動して「感性」を養ったりしませんでしたか?
どこまでも広がる世界にワクワクして冒険心をつのらせていませんでしたか?
アクションやレースゲームでは反射神経を鍛え、ボードゲームでは駆け引きを味わい、
ギャルゲーでは恋心を学んできたじゃないか!!(現実で使えるとは言ってない)
すべてが自分をかたち作る一部となっています。
学んできたことは数知れず、今でも文章力や表現力といった武器となって、仕事の助けになっています。
もしゲームをしていなかったら、どんな人間になっていたのかわかりません。
もしかしたらもっと社交的だったかも知れないし、
もっとスポーツが得意になっていたかも知れません。
まぁたぶん引きこもってたのは変わんないわ。
ぼくがそうであったように、あなたやあなたのお子さんもゲームに没頭してきたことで無駄になることなんか何一つないと思うんだぼくは。
『ゲームは人生の役に立つ。』でゲームの存在意義を考えてみよう

ゲームは「若い子が遊んでるぽっと出のなんかけしからん遊び」ではないです。
「料理」とか「スポーツ」とか「乗り物」みたいな、そういった広義の意味で使われるものです。
これまで生きてきてゲームをしたことのない人はいない。
現代人は特にテレビゲームやスマホゲームに熱中しているだけで、ゲームの根本的なところは変わりません。
ゲームはどうして存在するのか。
どんな影響を与えているのか。
気になった人は読んでみよ?
試し読みができるみたいなので、興味ある人はのぞいてみてね。
ではまた!