どうも、かずのこ(@roomliveman)です!
僕のように引きこもり状態をどうにかしたくて悩む人はたくさんいるかもしれない。
それと同じで、色んな人がそれぞれの悩みを抱えて生きているんだよね。
誰かを助けたいと感じたとき、あれこれ手を出してしまうかもしれない。おせっかいです。
ただそのおせっかいは、その人にどう受け取られているのか・・・。
そんなことを考えたことはありませんか?
その人のために何かしてあげたいという善意に相手は何を思うのか
誰かのために何かしてあげたいと思うのは尊いことで、それを偽善や自己満足とみなす気は全くありません。
ただその「何かしてあげたい」という善意が、相手にとっては「ありがた迷惑」に思われているかもしれないということは考えてみてもいいかもしれない。
たとえば、僕のなかでめちゃくちゃ分かりやすい例え話をしますと・・・。
1人用ゲームで自分がやりたいようにやっているのに、隣で友達が「あーだこーだそこは違う」と口を出してくる感じです。
ミスしたら「あー!だから言ったのに・・・」
うっさいわほっとけ!と思うやつです。
僕はどっちかというと口を出す友達のポジションですが。
これと同じで、心配して言ってくれるような、
- もっとこうした方が良い
- こうしないとダメだよ
といったアドバイスはもはやアドバイスでもなんでもなく、ありがた迷惑だからやめてくれと思われているかもしれないわけです。
見ていると心配になる気分を収めたいだけかもよ?
危なっかしいと思うとつい口を出してしまったり、すぐ助けを出そうとする。
もしかしたらそれはおせっかいですらなくて、見ていると心配になってしまう自分の心を落ち着けたいだけなのかもしれないよ?
自分の助言通りに動いてもらえると安心できる。
そういった意識から差し伸べられる手は、果たして善意と言えるのでしょうか?
僕の周りは、心配してあれこれ手を尽くしてくれる人ばかりだった
自身のことを少し言いますと、学校へ通えなくなった瞬間から今に至るまで、僕は周りと同じ生活スタイルではいられませんでした。
気が付けばこの歳まで引きこもりだ!
僕の周りはなぜかいつも良い人ばかりだったので、どうにか良くしてあげようという善意から色々手を尽くしてくれたのを覚えています。
ときには本を勧められ、またあるときには外へ一緒に出かけようと誘われ・・・
言い表せないほどにたくさんの手を差し伸べられてきました。
でも僕は今も引きこもりのままだ。
「あなたのために何かしてあげたい」という好意では変われなかったのだ。
おせっかいが押し付けに変わったら
あなたのために何かしてあげたいという善意がありがたく思われるとは限らないです。
僕も周りが手を差し伸べてくれたとき、その手を掴み続けることはできずに離してしまいました。
善意に答えられなくて、後悔や自責の念を感じ続けてきた。
結局何もできないことを申し訳ないとばかり感じていたからだ。
ようやく最近になって、自分のタイミングで新しいことをやり始められました。
僕にとってはブログがそうで、そこをキッカケとして色んな人と話して、会っていけるように変わっていけました。
人に言われてやるよりも、自分から始めようとする意思がないと人は変われない。
悩みは共有できる先さえあればいいんじゃないか、そう答えたのは母です。
悩みを聞いてあれこれおせっかいを焼いても、結局動くかどうかは本人じゃないと決められない。
僕は周りの善意では動けず、ブログで悩みをすべて吐き出して自身の弱さを認められたから次のステップへ移ることができた。
きっと僕にとってこの方法は大正解だったんだと思います。
だから引きこもりはブログをやれ!とはならない
僕はブログのおかげで前を向くことができた。
だからといって、同じ境遇の人たち全員に「ブログを始めれば絶対良くなるからやりなよ!」とは言えないわけです。
だって、僕にとって正解だっただけで、皆が同じように良くなるんなら初めからブログ治療法があるはずだもの。
ありがた迷惑なおせっかい焼きじゃ何にもならない。
だから僕が同じ境遇の人にできることがあるなら、自分と同じようにやれと言うことじゃない。
自分のやり方に続きたいという人の背中を、そっと押してあげることくらいだろう。
カッコつけるわけでもなく、マジでこれしかないと思う。
選択肢は選べるものであって、最初から答えが決まってるもんじゃない。
過去の僕にも、「自分の意思で選ぶことから始めような」と言ってあげたいと思うのです。
そうなったときに、周りの人たちは見守ってくれるだけで十分なのだ。